ふろむぜろぽいんと

社会人留学してしまいました。

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「日本人の9割に英語はいらない」に反論してみる

何年か前に話題になった、日本マイクロソフトのトップ・成毛眞氏による著書「日本人の9割に英語はいらない 」を、いまさらだが読んで、反論してみた。

僕は最初このタイトルをみたとき、著者ではなくて出版社がつけた煽りタイトルだと思った。タイトルは、売れ行きを致命的に左右するから、出版社がキャッチ―なタイトルをつけることが多い。でも、この9割というのは煽りでなくて、成毛さんご本人がはじき出した数字のようだ。

本書の要約

まず、著者の主張はこうだ。
日本人の9割では英語は不要だ。(この9割という数字にはザックリとした統計的根拠がある)
英語が堪能な国々は、英米の旧植民地だからにすぎない。
どんな学問も母国語で学べるほどに、国語が豊かなのは誇りである。
フランス人のように堂々としていればよい。
なのに、今の日本には、英語信仰がある。
英語はできてもバカはバカ。使いもしない英語をやるくらいなら、日本を語れるようになれ、そして仕事に必要なスキルを磨け。
早期英語教育は無意味だ。帰国子女も、母国語の形成の面で不利でしかない。
ビジネスでも、本質的な能力は別のことであり、”英語屋”なんてただの道具でしかない。

…とまあ、乱暴に要約するとこういうことだ。

学校の英語教育のお粗末っぷり、話す能力よりもリスニング能力のほうが大事だ、ビジネス英語は一般英語よりも簡単だ、という指摘など、意外にも賛成できる部分のほうが多かった

さて、「英語が不要」という部分については、以下に反論してみる。


本当に1割の人に英語が必要なら、むしろ英語学習者は増やさないといけない

英語が不要な9割というのは著者が計算して弾いた数字だそうだ。
だからこれをもとに話をする。英語が必要な1割というのは、約1200万人だそうだ。

まず、これって少ない数字だと思うだろうか?
そんなはずない

日本は総人口が1億2千万人、生産年齢人口が8000万人だが、たとえばTOEIC®を受験しに来る人間は年に240万人で、スピーキングテストに至っては3万人、TOEFL、IELTSに至ってはそれぞれ8万人と3万人しか受験しない。(英検は320万人だがほとんど学生)。
英語を学んでいる人がみな検定を受けるわけじゃないが、これって少ないんじゃないだろうか。

あなたが、英語学習をつづけている社会人だというだけで、すでに全体の1割だったりしても不思議はない

さらに、その人たちをさらに絞りこんでみよう。
以前のエントリでも見た通り、ノーマルTOEIC®は満点でも話せるかどうか怪しいのに、925点で上位2.2%に達する

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英語が必要な1割なんて言ってる場合じゃない、1割いてほしいけど、1%しかいないのが現実だろう。

しかも、英語が必要な1割の人を育てたいなら、英語に取り組む人口は1割では済まない。2割8割の法則のように、本当にできる人は、取り組んだ人間の一部に限られる。

かつての遣唐使や岩倉使節団みたいに、使命感をもった一握りのエリートとはちがう。現代日本の学習者や留学生全員に、そんな使命感を求めるのは無理だ。

たとえば僕が滞在したセブやブリズベンでは当時、日本人のおそらく5倍くらいの人数の韓国人が滞在していた。
でも、韓国人留学生の大半はハッキリ言って英語も社会人経験もビギナーレベルだ。やっぱり本当にできる人は上位1-2割になってしまうものだ。
本当に英語が必要な人間が1200万人もいるならば、英語学習者はその何倍もいないといけない。


ほかの会社では、海外に出る必要は増している

ポイントは、著者が所属していたのがマイクロソフトである、という点だ。僕は個人的にこの会社の創業物語は大好きなのだけれど、いまはすでに世界中に拠点を構える外資系企業なのだ。
だから成毛さんは、「今後どうやって海外市場に出ていくか」という悩みがはじめから存在しない場所から発言しているわけだ

でも、ほかの会社はちがう。

よく言われているように、欧州の国々や韓国の成功した企業は、規模に限りのある自国のマーケットでなく、世界中での展開を前提にしてビジネスをしている
日本は人口も経済成長も頭打ちだ。サービス業はともかく、ソフトウェア業や製造業では、日本企業もそれをやらないといけない。でも、できていない

僕は以前、一部上場の財閥系メーカーに、総合職で勤めていた。
就職人気ランキングにも顔を出すし、入社試験にTOEIC®700を課していて、海外拠点も世界中にあり、自称/他称ともにグローバル企業である。

そこで僕が担当した製品は、日本で7割近いシェアを占めていた。

ではこの製品の、海外向けと国内向けの売上比率はどのくらいだと思うか?
…なんと、いまだ国内向けのほうが海外向けよりも多かった。

じゃあ、世界の1位や2位がそんなにいい製品なのかと言えば、差なんてなかった。むしろ製品ベンチマーク上では勝っていたと思う。
製品で勝っていても、結局、生産・供給や販売網の「リーチ」の差で、足場を築けていないのだ。

財閥系の超大手でさえこうなのだから、中小企業に目を移せば、そうした会社がウジャウジャあることは想像に難くない。
トヨタにはできても、ふつうの会社にはまだできていないのだ
自分がそんな中堅企業の社長ならばやっぱり英語できる人間は欲しい。

企業の設備投資は簡単なことではないし、必要なら通訳を雇って現地商社に任せればいいとか、いろいろ意見はあるが、やはり言語バリアは大きな要因だ。
英語が不要なのではない。できたほうがいいのはわかっていて、単にできていないだけだ。

 

英語をやったからといって、ほかの能力が落ちるわけではない

英語だけできて仕事ができない人=企業内の”英語屋”を例に挙げているのもいただけない。両方できればいいじゃん、でおしまいだ。

英語をやるくらいなら、仕事と、本物の教養を身につけろ。

首尾一貫して、著者の矛先は「日本に関する教養さえ持たず、仕事もできないのに、英語にだけ熱をあげているような人間」に対するものである。

そうした人は、存在する。極端な実体験として、
かつてフィリピンの英語学校に通ったとき、あるグループクラスの先生が「日本はロシアの植民地だったんでしょ」とか支離滅裂なことを言い始めたときがあった。
そのとき、韓国系の学校には珍しく8人グループ中4人も日本人(ギャル)がいた。だが、それは違う!と言って声を上げたのはなんと僕一人(+あと歴史通の韓国人が一人)だった。
彼らに対しては、申し訳ないがキミたち英語より以前にやることがあるだろう…と思ってしまった。でも、そんな彼らが、この本を手に取るだろうか?

成毛眞のビジネス本を手に取って読んでいる時点ですでに、その手の勘違いした人々ではない可能性が高い。

もしここに、著者が主張するような「本物の大人の教養」を身に着けた人がいたとしよう。仕事ができて、論理的に考えることができて、芸術や歴史や古典も理解している。

著者の言う通りなら、それこそ彼/彼女は、もっと外国語を身に着けて日本のことを発信できるようになるべきだ。

日本は、情報発信の面では全然足りていない。
僕がフィリピンやオーストラリアの新聞を読んでも、日本という国はしっかり悪いほうに誤解されていた。鳩○、村○、河○の談話なんかが、良識ある日本人として取り上げられるほどだ…といえばその酷さがわかってもらえるだろう。
BBCやCNNでさえ、こと日本に関する話になると、権威も名折れなトンチンカンなことを書いていることがあるほどだ。

本書の中では、白洲次郎のエピソードも紹介されている。天皇陛下からマッカーサーへの贈り物がぞんざいに扱われたのを見て激怒し、GHQを怒鳴りつけた件だ。
これを読んだら「英語でもやりあえるくらいになりたい」と思うことこそあれ、英語不要なんて結論には結びつかない。

 

以上みてきたように、英語不要という著者の矛先は「英語にだけ熱をあげて、仕事の能力や、自国に関する教養が欠けている人」に対してのものだ。だが、この本を手に取るような人は、そうでない可能性が高い。

だから、「教養と英語を両方身につけるべし」というのが本書の素直な帰結だ。

 

英語ができるようになりたい、という心の疼(うず)きは生涯消せない

すでに結論が出たも同然だが、いくつか付け加える。

仕事で英語を使う機会があまりない人にも、年一回くらいは「英語できたらよかったな」という機会が巡ってくる。

海外メーカへ問い合わせの電話をかけることだったり、出張だったり、海外支社からの来訪者だったり、海外旅行だったり、外国人との遭遇だったり。
もっと下世話なことを言えば、ホワイトカラーの人の場合、英語が必要になる1回というのが、社内で団体受験するTOEIC®だったりするかも。

この「英語できたらよかったな」の機会は、今後もまた巡ってくる。
いちいちそうしたことがあるたびに、「英語できたらよかったな」と感じるなら、おそらく老後も、この灯を消すことなんてできないでしょう。
だから趣味で英語をやったっていいと思う。

単純に外国語ができたほうが、人生楽しい

海外のWebサイトだけでも結構楽しいのだけれど、旅行についていえば、もう有無をいわさずに英語ができたほうが楽しい。

著書を読む限り、著者はあまり冒険要素のある旅をしたことが無いようだ。
「通訳付きのツアーでいいじゃん」的なコメントからも、それがうかがえる。

これは本気で言っているんだろうか?

潔癖な人はさておき普通の人なら、予定のない個人旅行はツアーの10倍楽しい。
個人手配だと、ちょっとしたトラブルだって楽しめるし、ホテルやお店で、出会った人と会話が弾むと楽しすぎる。もう、筆舌に尽くしがたい。

一人で行ったとしても、たとえばバックパッカー宿とかなら話す相手がいる。外国人だと、30代や40代もいる。

僕はインドネシアの宿泊先で、仲良くなったみんな(それぞれ別の国の女性だった)で何日か続けてヨガ教室に通ったこともある。あまりにも楽しすぎて、SNSにアップなんてできなかった。職場の人間になんて思われるか分かったものじゃない。

いちど海外に友人ができると、どれだけ間が空いても連絡をくれると心が温まる。

この、毎日のルーティンとは離れた、外の世界をもっているというだけで、世界観がちょっと変わる。
正直、以前のような閉鎖された世界観にはもう戻れない。


英語は必要だ(英語に限らず、外国語学習が必要だ)。

むしろ本書の内容を素直に解釈すると、「英語のほかに大人の教養も身につけなさい」という帰結だ。

最後に、本書もまたTOEIC®では話せるようにならない、というスタンスで書かれているが、これに対する反論としてはTOEIC®スピーキングをやれば解決する。

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